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宝石店が御徒町に多いのは何故?

更新日:2024年11月29日
宝石店が御徒町に多いのは何故?

そもそも御徒町の名前の由来とは?

江戸時代、御徒衆が多く住んでいたことに由来しています。御徒(徒士(かち)とも呼ばれていました)とは、江戸時代の身分制度における武士の一部であり、戦の際には徒歩で戦う、騎乗の許されていなかった下級武士のことを言います。徳川将軍が鷹狩りをはじめ様々な場所に外出する際には、将軍の護衛をしたり、身の回りの世話をしたりもしていました。そんな御徒の多く住む町、ということで御徒町と呼ばれるようになりました。

御徒町は仏具や装飾品の職人が集まる場所でもあった

御徒町の周辺には、浅草寺・上野東照宮・寛永寺・摩利支天徳大寺など数え切れないほどの寺院が集積しています。このため、江戸時代には、それらに納める仏具などを作る職人がたくさんいました。また、吉原・湯島などの色街も近くにあったこともあり、かんざしや髪留め、帯留めなどを作る職人も多くいたり、刀剣の装飾を作る錺(かざり)職人もいたりしました。

しかしながら、明治時代に入り、廃仏毀釈や廃刀令によって仏具や刀剣装飾の需要は落ち込みました。また、開国したことに伴い、洋服をはじめとして、西洋の文明がたくさん入ってくることになりました。人々は刀を捨て、ちょんまげを切り、洋服を着るようになるという、文明開化の到来です。それによって、かんざしや髪留めなどの需要も大きく低下することになりました。ちょうどこの頃、西洋の文化の一部として、ジュエリーやアクセサリーも入ってきており、これまでかんざしなどの装飾品を作っていた職人たちは、ジュエリーやアクセサリーを作る職人へと転換していきました。それに伴って、宝飾品としての御徒町のイメージも高まっていくようになりました。

宝石の町、御徒町へ

太平洋戦争後、上野・御徒町周辺では闇市が多く開かれ、日本中から様々な商品が集まるようになりました。ここでは、米軍の兵士によってアクセサリーや時計などの売買も行われていました。これがアメ横のルーツの一つとも言われています。上野や御徒町はアメ横から近いことから、アメ横で売買されるアクセサリーや時計の修理を行ったり、問屋として仲卸を行ったりするものも現れるようになりました。また、闇市が多く開かれていた影響で質屋や金貸しなども数多くいて、彼らが抱えきれなくなった物品も売り出されていたようです。

日本中から様々な宝飾品が集まる上野・御徒町周辺には、地方の小売店も仕入れのために足を運ぶようになりました。その当時、問屋はある程度集積していたものの、台東区内に点在していたことから、まとまった問屋街を作れないか、との要望が上がるようになり、1956年には時計関係の問屋11社で「仲御徒町問屋連盟」が結成されました。また、1964年から時計や宝石業者などによる交換市も行われるようになり、御徒町は、宝飾品取引の中心地としての地位を確立していきました。

御徒町のジュエリータウンを通る道には、「ガーネット通り」、「ダイヤモンド通り」、「ひすい通り」、「エメラルド通り」、「ルビー通り」、「サファイア通り」など、宝石の名前が付けられており、御徒町が宝石の町であることを象徴しています。

また、1952年には「全国宝石卸協同組合(発足当時は全国宝石商協同組合)」も結成されます。その鑑別部門として1986年に㈱全国宝石学会も設立され、御徒町は宝飾品取引の中心地としての地位を確立しました。

宝石鑑別機関も多く集う御徒町

一般社団法人宝石鑑別団体協議会(通称AGL)と呼ばれる、主要宝石鑑別機関が参加している組織の事務局も御徒町に存在しています。

AGLの主な目的は、宝石の鑑別・グレーディングに関する諸問題の検討解決です。主な活動としてはダイヤモンド・グレードの調査と調整、鑑別規約の制定や鑑別方法の研究などを行っています。

また、このAGLにも所属し、現在日本の6~7割を占める鑑定書を発行している中央宝石研究所(通称CGL)の東京支部も御徒町に存在しています。

DD Japanにおいても、また他ダイヤ買取店においても、ダイヤモンドの詳細な鑑定に利用しています。

鑑定書の有無がダイヤの買取価格にも大きく影響するため、ダイヤの販売を希望する方においては、一度足を運ばれるのも良いかもしれません。

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